2026年今年も懲りずに解いてみた共通テスト
今年もノー勉おじさんが勝手に共通テストの問題にチャレンジする日がやってきました。別に何の義務があるわけでもなく、誰かに頼まれているわけでもないのですが、なんとなく恒例になってしまってやめられません。
解答するのは、例年通り日本史(歴史総合・日本史研究)、世界史(歴史総合・世界史研究)、国語の中の漢文です。
結果は以下の通り。
日本史は1問間違えて97点、世界史は2問間違えて93点、漢文は満点でした。
日本史・世界史は、考えさせて解かせるという傾向が定着した感じです。細かい知識の量や記憶力の優劣を問うのではなく、大きな歴史の流れの理解と論理的思考力に基づいて、与えられた史料から結論を導くことを求める問題がほとんどです。暗記したことをそのままアウトプットすればいいという問題はほぼないので、暗記に頼りたい人にとっては面倒くさいでしょうが、暗記が嫌いな人からすると得点しやすいと思うでしょう。問題文をきちんと読んで出題意図を理解しないと、知識があっても取りこぼすことになります。
日本史の冒頭は内容的には世界史じゃないかと思いましたが、世界史の知識がなくても史料を読めば解けるので、まあ問題はないんでしょうね。
漢文は問題としては特に難しいところはなく、すんなり解ける内容だったのではないでしょうか。内容が詩(漢詩)の評価についてのものなので、個人的には非常におもしろく読みました。豊山の主張にはほぼ同意です。今の世に漢詩を作る人はいたって少なくなりましたが、自ら詩人をもって任ずる方々は自分の詩が「真瓦」になっていないか自問し自戒されんことを願います。その思いもこめて、今年も問題文を訳しておきます。
原文
客問余曰、「子学詩、唐耶、宋耶。」曰、「我不必唐、不必宋、又不必不唐宋。可見、不必二字、是我宗旨也。」
東坡云、「作詩必此詩、定知非詩人。」可謂知言矣。窃視世之詩流、不問詩之巧拙、党同伐異、忿争如狂。是雖狭見使然、不亦已駭乎。
有人極口罵白石・南郭、以為偽詩。余請観其詩。立意陳腐、但多用生字、以掩其拙。余因謂曰、「白石・南郭誠作偽詩、吾子誠作真詩。然吾子之詩、譬真瓦也。二子之詩、譬偽玉也。真瓦之価、迥在偽玉之下。」
余於詩無所偏好。不問其風調之異同、佳者取之。但生硬・拙俗、諷詠無韻致者、雖曰名人之所作、我則不取也。
訓読
客 余に問ひて曰はく、「子 詩を学ぶに、唐か、宋か」と。曰はく、「我 必ずしも唐ならず、必ずしも宋ならず、又た必ずしも唐宋ならずんばあらず。見るべし、不必の二字、是れ我が宗旨なり」と。
東坡 云ふ、「詩を作るに此の詩を必とするは、定めて詩人に非ざるを知る」と。知言と謂ふべし。窃かに世の詩流を視るに、詩の巧拙を問はず、同じきに党し異なるを伐ちて、忿争すること狂ふが如し。是れ狭見の然らしむと雖も、亦た已だ駭ならずや。
人の口を極めて白石・南郭を罵りて、以て偽詩と為す有り。余 其の詩を観んことを請ふ。意を立つること陳腐にして、但だ多く生字を用ひ、以て其の拙を掩ふのみ。余 因りて謂ひて曰はく、「白石・南郭は誠に偽詩を作り、吾子は誠に真詩を作る。然れども吾子の詩は、譬へば真瓦なり。二子の詩は、譬へば偽玉なり。真瓦の価、迥かに偽玉の下に在り。」
余 詩に於いて偏好する所 無し。其の風調の異同を問はず、佳き者は之を取る。但だ生硬・拙俗にして、諷詠するに韻致無き者は、名人の作る所と曰ふと雖も、我は則ち取らざるなり。
訳
ある人が私に質問して「あなたが手本とするのは唐詩ですか、宋詩ですか」と言うので、私は「必ずしも唐詩ではないし、必ずしも宋詩でもありません。さらにいえば必ずしも唐宋どちらでもないというわけでもありません。つまり、この「不必」の二字こそが私の宗旨なのです」と言った。
蘇東坡は「詩を作るのに、このような詩でなければならない、という人は決して詩人ではないとわかる」と言っている。見識ある言葉というべきである。ひそかに世の中の詩人の流派を見るに、詩の巧拙を問わずに、同じ意見のものには味方して異なる意見のものには攻撃し、怒り争うこと狂ったかのようである。狭い了見がそうさせていることとはいえ、なんと愚かなことであろうか。
口を極めて新井白石・服部南郭を罵って、その詩を偽物の詩だとみなす人がいたので、私はその人自身の詩を見せてもらった。すると主題の設定が陳腐で、やたらとたくさんの熟さない言葉を使って詩の下手さをごまかしているだけのものだった。そこで私はその人にこう言った。「白石・南郭はたしかに偽物の詩を作り、あなたは確かに本物の詩を作っていますね。しかしあなたの詩はたとえれば本物のかわらけです。白石・南郭二人の詩は偽物の玉です。本物のかわらけの価値は、にせものの玉のはるかに下です。」
私は詩について偏った好みはない。その詩風の違いにこだわらず、良いものは評価する。ただ表現がぎこちなく下手で俗っぽいばかりで諷詠しても気品や風情がないものは、たとえ名人が作った詩であっても、私は評価しないのである。
共通テスト問題文の注釈では「生字」を「見なれない字や言葉」と説明していますが、もっとはっきり言えば、「用例の蓄積がない新語や勝手に作った言葉」ということです。我々のあいだでも他の人の詩を批評する際に「この言葉は熟してないから改めたほうがよい」とよく言います。藤原定家も「情(こころ)は新しきを以て先と為し、詞(ことば)は旧きを以て用ゐるべし」「詞(ことば)は三代集の先達の用ゐる所を出づべからず」と言っています。豊山から「真瓦」と評された詩人は主題が陳腐で、それをごまかすために熟さない言葉を使っているのですから、定家が主張するところと真逆です。かわらけと見なされても仕方ありません。




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